昭和22年創立~25年

2020-11-06

仙台市立五橋中学校・沿革

≪ 昭和47年 1972年 五橋中学校25年周年 ≫ 

・昭和22年4月1日仙台市立第九中学校 創立
・昭和24年10月1日仙台市立五橋中学校 改称
 創立~昭和47年まで25年間の道のり。
…当時の文献より一部抜粋にて綴ります。



昭和22年4月1日第九中学校誕生~
その年に、五つの橋の校章が決まる
六三制による義務教育(新制中学校)
1年生6学級335名
2年生8学級422名
3年生4学級207名
職員数 30名



第一回生卒業生 男子86名女子107名
戦争が終わって民主主義国家が再建され学制の改革に国民の期待が寄せられた。五つの橋の清き流れに。五橋を五経に通わせて論理を明らかにし、五常五経の動議の高揚を人格教育の中核とし、互いに切磋琢磨していくことが、いかに時が経ったとしても変わらない五橋生への念願である。



仙台市立五橋中学校と改称 象徴の校旗をつくる
全国ラジオ放送音楽コンクールに優勝し文部大臣賞を獲得
課題曲「希望の歌」随意曲「森の歌」



昭和25年2月15日 「香りも高き…」校歌できる
作詞:山本 正 作曲:海鋒 義美
わが五橋中学校のめざす態勢がここに整った。
この頃から高校入試の激しさが増し始めた。
この年の6月、朝鮮戦争が勃発した。
皮肉なことに戦争景気で千円札も誕生した。




NHK全国唱歌ラジオコンクール 24年優勝 25/26年 第二位
昭和26年10月山田武男初代校長から二代目高橋善行校長を迎える。教育の呼吸について禅修行の妙諦を述べる。教育は温めてやることも必要だが、眼を開いてやる時期をつかむことがなおさら大切なのだ。
この年の4月「老兵は死なず消え去るのみ」の言葉を最後に日本から進駐軍が引き上げて翌27年にサンフランシスコ講和会議に吉田首相が参席し戦後6年目にして本当の終戦を迎える。



昭和28年3月 鉄筋モデル校舎 文部省指定受理
△施工者・仙台市建築課△施工業者・大成建設△第一工費(坪数380)1983万円△第二工費(坪数695)1675万円 竣工予定29年5月・7月
〈 中体連 第一回 〉
仙台市大会で庭球(男子)柔道が優勝し、男子が総合で2位を獲得。



昭和22年から開かれている「中学校体育大会」は当初野球のみで始められたが、昭和27年には「中学校総合体育大会」と改称され野球・テニス・バレーボール・ソフトボール・バスケットボール・卓球・サッカー・柔道・体操・水泳・陸上の11種類が第一回大会として開催された。剣道は32年バドミントンは28年駅伝は31年相撲は35年スキーは40年から加わった。
〈 中体連 第二回 〉
市/優勝 バスケ・バレー・バド・体操
県/優勝 バレー(男子)



待望の鉄筋校舎
教室不足で一週間交代午前午後という二部授業から講堂授業という苦難の中ようやくモデル校となる鉄筋の新校舎が竣工された。
調理室・図書室・放送室が配置される。
〈 中体連 第三回 〉
市/優勝 陸上・バレー・バド・体操
県/優勝 陸上・庭球・体操



昭和30年九月 高橋善行校長から第四代校長に長瀬上顕先生が着任される。その年の九月七日には南校舎が完成して一年生の五クラスが移転された。
全国でも珍しい三つの理科教室(化学室・物理室・生物室)を持つ校舎が構築された。
〈 中体連 第四回 〉
市/優勝 バスケ・卓球・バド・体操
県/優勝 体操・卓球


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